お久しぶりです。
ジョージホルヘ改め、サーモン中尾です!
(テレビ出演を機に改名しました)
本題の前に、11月11日(鮭の日)に都内で第一回サーモン解体ショーを開催しました!
幻の巨大サーモンやブランド虹鱒を仕入れたこともあり、一瞬で定員も埋まり大好評でした!(当日手助け頂いた方、心から感謝です…!)
なぜ日本人は魚を食べなければいけないのか。
サーモン解体ショーでとある方から「一人で魚の普及活動を行っていて偉い」などと言われたのだが、この言葉が心に根がかりした。というのも私はサーモンの啓発活動を行っており、この時魚食の普及を行っているつもりではなかったからだ。
ちなみに私がリアルとデジタルでサーモンの活動を行っている理由は大きく2つあり
① サーモンの間違った情報がネット上で蔓延しており、サーモンの事実を伝えたいから
② サーモンは高級寿司店に置かない邪道な魚、女子供の食べ物だとかいう馬鹿げた風潮を無くしたいから
概ねこの2点であり、主要産地がチリやノルウェーという日本と離れた僻地なため、内情を知っている自分がなんとかせねばなと思ったからである。
改めて言う事でもないが日本人の魚離れが著しい!
日本人の魚介類摂取量は年々減少し、2006年には遂に肉類に追い抜かれ日本人は魚よりも肉を食べる食文化を持つ民族に変わったのである。魚離れは「深刻な魚食文化の崩壊」などと言われ、しばしば悲嘆とともに語られている。
そして水産関係者はこうボヤくのだ
「最近の若者は魚を食べないし、主婦は魚をさばけなくなった」
「本当の魚の魅力・おいしさを知らないのでは?」
「魚食文化を次代に受け継がなければ」
これに対して、ふと思ったのだ…
「そもそも魚を食べないといけないのか…!?」
魚を食べようキャンペーンは日本中の至る所で行われているが、果たしてなぜ日本人は魚を食べなければならないのだろうか
※言うまでもないが私自身は大の魚好きで、煮干しを頬張りながら今記事を書いている(煮干の目玉は意外と硬い…!)
食べる理由① 栄養価が高いから
まず第一にあげられるのが栄養である。
しかし今の時代、魚でしかとれない栄養成分なんてものはない。
魚の持つ成分をして最も語られることの多いDHAやEPAは生活習慣病の予防に高い効果を発揮するものだが、定番のサプリメントとして今やどこにでも売られており、魚を食べるよりはるかに手軽に摂取できる。栄養価というものが決定的な魚を食べる理由にはならなさそうだ。
食べる理由② 漁師が生活できないから
魚が売れないと漁師は生活ができないが、残念ながら世間が魚を食べる理由にはならないだろう。
例えば昨今のタクシー業界は苦境に立たされているが、同情からタクシーの乗車率が上がる訳ではない。新聞の発行部数が減っているからといって新聞を買う必要もないし、多くの地下アイドルもそれだけで生活はできなさそうなのだが、だからといってお金を払う義理などない。皆が地下アイドルのファンではないし、漁師のファンという訳でもなさそうだ。
安月給のために専業にできない仕事は実は多い。その生業を続けたいならば稼げるように工夫・努力するのが資本主義下の摂理であって、それが出来なければ仕事を変えないといけない。住む場所や年齢に関わらず、生き残るためには自ら変化しないといけない時代なのである。
こういうことをいうと謎の水産勢力から「お前は漁師の苦労を分かっているのか!このハゲーッ!」などと言われそうだが、それに対しては「ちーがーうーだーろー!」と答えたい。生き残るために必要なのは現場の”苦労”ではなく、現場の”工夫”と努力でありその成果だからだ。苦労だけで生活ができるならば、苦労の絶えない地下アイドルから今頃数多の大スターが排出されていなければおかしいはずだ。
※一応、超低温マグロ漁船やチリ(チロエ島)のサーモン現場で働いていた身として、漁師の苦労はある程度理解しているつもりである
食べる理由③ 伝統的な食文化だから
もっともらしい理由であるが、確かに日本人は島国であり歴史的にも魚を食べて生きてきた。それはタンパク源として十分に供給できるほど食肉がなかったからだ。「なぜこれまで日本人は魚ばかり食べてきたのか」その答えは「日本はハンバーガーを作れなかったから」である。しかし今では肉をおいていないスーパーなどないし、ハンバーガーを食べたことない人も殆どいない。
四季のある日本には季節感という言葉がある。私個人はスーパーに陳列される魚を見て季節を感じるが、今時の若者はスーパーの秋刀魚ではなく月見バーガーのCMを見て季節を感じているだろう。季節の到来は魚を見なくてもわかるし、私の世代では旬の魚以上に季節限定のエモいメニューに心が動かされるのだ。
まだ魚食は日本人のアイデンティティだとという人もいるが、今や日本は世界有数の美食国家であり、国内どこででも世界各国の様々なメニューを食べることができる。「魚食こそが日本のアイデンティティ」という時代はいつのまにか終わってしまったのだ。カレーやラーメンも日本人の食べ物であり、インド料理や中国料理を食べているという感覚は薄い。
伝統的な食文化からの脱却は哀愁と共に語る人が多いが、食文化は進歩しており、それ自体は素晴らしいことなのではないか。30年前と比較すると確かに魚の消費量が落ち込んだが、我々の取り得る食の選択肢は格段に増えたはずだ。若者は魚を食べなくなって箸の扱いが下手クソになったという人もいるが、その分私たちはフォークやナイフの使い方が年輩の方よりもうまくなったのではないだろうか。
とどのつまり今の時代、日本人だからといって魚を食べる理由などないのではなかろうか…
日々進化する食文化
食文化の進歩とは”一汁三菜の食卓”や”魚食の普及”などではない。
恐らく食文化というものは、個人に最適化される方向で変容を遂げていくだろう。
100年前は村単位で同じものを食べていたのが、徐々に分解され今では家族単位、そして個人に最適化されつつある。
手間をかけずに好きなものを食べられるグルメテーブルかけ
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ドラえもんのひみつ道具に”グルメテーブルかけ”というものがある。これ自体は実現不可能にも思えるが、食のグルメテーブルかけ化はここ数年で一気に進んでいる。例えば昨年より都内で展開しているUberEATSもその一例である。UberEATSは新しい出前サービスであり、380円の送料を払えば数百店舗の飲食店から自分の好きなメニューを家まで届けてくれる。多少の時間差はあれど”グルメテーブルかけ”との違いはない。
また缶詰もある種の”グルメテーブルかけ”である。今や缶詰は魚だけではなく、だし巻きやたこ焼き等なんでも揃っている。缶詰の技術向上によりクオリティもかなり高く、缶詰BARなるものも店舗を増やしており、魚離れが進む中、調理の手間がかからない鯖缶の売り上げは絶好調なのである。
サバ缶人気、売上高5割増:日本経済新聞
こうしたサービスにより個人に対して食が最適化され、同じ食卓を囲っていながらも個人個人が違うものを食べる時代はもはや到来しているのである。
さらにいえば食が個々の味覚や健康状態に最適化されれば、皆が似たようなカツ丼やカレーライスを食べることさえなくなるのかもしれない。
例えばドラえもんという個人(個機)に食が最適化されるとこのようになる
ドラ刺身にドラステーキは極例であるが、個人の食の満足度を追求するとこういう食事もでてくるだろう。味覚というものは千差万別であり、その人がうまいと思えば、それはうまいものなのである。
(ドラバーガーはマックグリドル路線で意外とありかも…)
また先日の情熱大陸で落合陽一先生がカレーをストローで飲まれていたことが話題となっていたが、これも別段おかしい話ではない。カレーという食品が忙しい人向けの摂取形態に変形しただけである。食文化の進歩はいずれ無限のメニューと無限の食べ方をもたらしてくれるのだろう。※カレーをストローで飲むことが当たり前になる訳ではない
情熱大陸に出た落合陽一、カレーをストローで吸う | netgeek https://t.co/GiKmiaiOtv pic.twitter.com/wvRzzKnm4T
— netgeek (@netgeek_0915) November 21, 2017
まとめ:魚食文化とこれから
意外と多くの水産関係者が、丸魚を家でさばいて食べる世界を魚食の目指すべきゴールとして捉えている。しかしこれは明らかに時代に対して逆行しており、我々の世代からすると食文化の退化に思えてしまうのだ。
魚食文化というのはただ守るだけではなく、現在に相応しい形に進化させなければ絶対に生き残れない。もし子どもの魚離れを本当に止めたかったら、マクドナルドが子ども心を掴んだ努力と戦略を凌ぐ、漁師や我々水産業者の知恵と工夫が必要に決まっている。
上意下達の水産業界では昔ながらの王道を叩き込まれるが、その王道を辿った現在の水産業界は危機的状況にあるのである。私たちはその道が正解なのか今一度確かめるべきであり、必要であればあえてその道から外れることも考えなければならないのではないだろうか。大手水産商社を退職しました。古すぎた日本の水産業界
あ、私は当時の水産商社からは退職することを選んだが、別に今流行りのフリーランスや起業こそがどうこうと言うつもりではない。ただ数ある選択肢の中で最も平均年収が低く、暗雲立ち込める業界だと知った上でこの世界を選んだことに対して、この業界の若者は残念ながら責任を持たなければならない。そのせいで私は事実、大学時代の友人とは倍近い給料差がある。完全な自己責任だが、無論後悔などない。
日本では年を重ねるほど文化を保守する傾向にあるように思う。分からないが私も年を取るにつれ保守的になってゆくのだろう。つまり何かを変えたいのなら、エネルギーの有り余る若いうちに果敢に挑まなければいけない。「将来的に〜したい」などと言っているうちに、いつの間にか王道とやらを叩き込まれた保守的な自己が完成されてしまうのだろう。「何をやるのか」それはあれこれ手を出しながら確立していこう。「いつやるか」この答えだけは明確であり、それはやっぱり「今でしょ」なのだろう。そう思ったからとりあえず今私はこのブログを記事を書いている。(と言ってる間に書き終えてしまった、次は何をしよう…!)
サーモン中尾(元ジョージホルヘ)